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震災体験記【1】 2011年3月11日(金)〜13日(日)

震災体験記
【1】 【1−2】 【1−3】
【2】 【2−2】 【2−3】
【3】 【3−2】
【4】 【4−2】
【5】 【5−2】
【6】
【心の声1】 【心の声2】

家族:
 私(30代)
 父(60代)
 母(60代)
 じいちゃん(80代)
 みみこ(仮名)(犬・5歳)

居所:
 宮城県。沿岸部ではない地域。
 私は実家を離れて同じ地域内で1人アパート暮らし。

記述について:
 プライバシー関連のことがらはフェイク入れてます。

地震発生
実家に到着
避難所
2日目朝〜昼
2日目午後〜夜
3日目朝〜昼
3日目午後〜夜

3月11日(金) 1日目(地震発生日)
 そろそろ仕事のための準備すっぺかと思いながらアパートの部屋でごろごろしていた時、地震発生。午後2時46分。
 一瞬で「大きい!!」と思うような強い揺れ。あわてて飛び起き、パジャマという格好のまま、携帯だけ握りしめつつ、玄関に走ってドアを開ける(逃げ道確保)。隣の部屋の人も外に出てきていて、思わず顔を見合わせて「ちょっと…」「すごいですね…」と言い合う。そう言ってる間に揺れはさらに強くなり、私は玄関のドアのノブを持っていたんだけど揺れでどんどん体が振られて、部屋の中では食器棚が倒れかかったりその上に乗せていた箱が落ちて中に入れてたお弁当箱とかが玄関の外まで転げ出てきたりしてるので、私はとりあえずドアを閉めて、今度は玄関前の柵みたいなものにつかまった。つかまっていないととても立っていられない…つかまっていても右に左に、前に後ろに体が振られ、思わず「わーーー!!」と悲鳴が出る。錯覚かもしれないけどこの時、アパートの建物も、斜めになるぐらい揺れてた気がする(プリンをお皿に乗せて、皿を揺すってぷるぷるさせてる時みたいな感じ)もうとにかく柵につかまってるしかできず、そうやってるうちにだんだん揺れはゆっくりになり、おさまってきたなという頃に「…おぉ〜怖かったぁ…」と言いながら部屋の中に戻る。とりあえず建物つぶれなくてよかった…。食器棚が斜めになっててそのままでは中に入れないので、よいしょっと起こし上げ、あらゆるものが散乱した部屋の中に入る。
 電気つかない。停電。こりゃしばらくはだめだな…と思いながら、携帯で実家に電話。つながらない。この揺れだし実家は築何十年の古い家なので、心配でとにかく行ってみようと思い立つ。そこらへんにあるパンとか飲み物とかを少し持って、ガスの元栓を閉め(元栓までたどり着くのがまた大変。お菓子の箱や鍋などが散乱した上をスリッパで踏みながら、ようやっと元栓を閉める)、パジャマの上にコートを着て、車で実家へ。

 道路は渋滞。アスファルトのあっちにもこっちにもひび割れ。段差。電柱があっちこっちに傾いてて遠近感がおかしくなりそうな風景。信号も消えてるので皆おそるおそるの牛歩運転。止まっていると余震で車がゆさゆさ揺れる。カーラジオでは地震情報、たぶん通常の番組内容が吹っ飛んでずっと地震情報(落ち着いて行動してください、とか)をやってたと思う。
 途中、1階がつぶれている建物や家を目撃。昔からよく知っている建物。家。ああ…(つらい)と思いながら、まさか実家は…と背筋が冷たくなる。

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 普通なら10分か15分ぐらいで着くところを30分以上かかって実家に到着。実家の建物は無事でした。よかったー。庭先に車を停めると、家の中から母が私を見て「あら〜!!よかった〜!!」と大声。あとから聞くと、私が車で来れるという発想がなくて、歩いてでも来いと思っていたらしい。いつも車で実家に行ってるのに何でやねん。まあそれだけみんな動揺していたということ。
 そんな母は、じいちゃんの部屋のタンスが倒れたので、それを直そうとしていたところ。じいちゃんが使ってるベッドの上、まさにいつもじいちゃんが寝てる場所に、でかくて重たい昔造りのタンスがどすんと倒れたと。そしてなんとその時じいちゃんはちょうどトイレに行っていたと…何というラッキーボーイ…。あと窓のサッシが外れてたり、他にも家の中に入るとあるわあるわ、倒れたり、壊れたりのオンパレード。でも母は地震の時、ちょうど柱のそばにいたのでとっさにつかまり、父は庭にいて、立っていられなくてよろけたけど、家族誰も怪我ひとつなく本震の揺れを乗り切っていました。偶然に助けられたところが大きかったですねうちの家族は。ばあちゃんが天国から守ってくれたか…ありがとうばあちゃん。
 家自体も損傷はなかったけど、家の中は割れた食器やらで危ないので、皆ずかずかと土足で出入り。とにかく家の中を動けるように、割れたものや倒れた家具をかきわけながら、とりあえずけもの道のような隙間を作っているという感じ。私は主に、未曾有の地震に恐怖して大興奮のみみこ(仮名)の監督。リードでつないでみたり、柵の中に入れてみたりと試行錯誤していたのですが、私もどうやら動揺していたようで、柵をきちんと閉めておかなかったすきにみみこすかさず脱走(1回目)。ああやってしまった…。リードとメロンパンを持って探しに行く。
 このころから天気は雪。風も吹いて吹雪く中、いつもの散歩コースに沿って探し歩く。いねーなぁ…。そのうち戻ってくるべかと思って家に戻ろうとした時、どこからかみみこ現れる。そのまま近所の家の敷地に入っていったので、そこの家の人にも手伝ってもらいながらリードでつないで捕獲。

 電気は停電してるけど水道は水が出る。でもいつ止まるかわからないので、出るうちに風呂(浴槽)、鍋、バケツなどに水を溜めておく。

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 家の中に寝られる場所がないので、避難所に行ってみることに。日が暮れて暗がりの中、懐中電灯で照らしながら、とりあえず一晩分の食べ物・飲み物とかじいちゃんの布団、毛布、お湯入れたポット、4人分の懐中電灯とかを準備する。車2台に4人で分乗し、避難所になっている学校へ。(つまりみみこは置いていった)
 午後7時頃、着いてみると、体育館にはすでに人がいっぱい。何とかじいちゃんの布団を敷けるぐらいのスペースを確保する。陣取った場所のすぐそばに、たまたま、学校の生徒たちが下校する時に置いていったというダウンコートがいくつもあり(学校の生徒たちは地震後、何も持ちものを持たないで身一つですぐ帰されたらしいと後で聞く)、どうぞ使ってください、あとそのまま置いといてもらえればいいですのでと先生が言っていたそうなので、ありがたく使わせてもらう。毛布は持っていったものの夜けっこう寒かったので、防寒に大変役立ちました。生徒たち、先生、本当にありがとう。
 体育館内には自家発電式?のライト2基と、卒業式とかで使うような首振り暖房機が1台。まさに卒業式の当日だったのか、それとも前日だったのか次の日だったのかわかりませんが、館内には紅白の幕がかかっている。床にはカーペット様の敷物やウレタン様の敷物が敷いてあり、これでけっこう底冷えが食い止められてた気がする。でもそれでもけっこう寒かった。

 私の携帯が仕事の取引先につながり、こういう状況なのでまたあらためてご連絡します…と話す。
 他、親戚とメールのやり取りができた。県内の親戚は一同無事とのこと。

 トイレは水が止まっていて使えないので(それでも使ってる人がほとんどだったけど)、私と母、トイレのため夜9時頃に車で1回家に戻る。その時、みみこが玄関前の柱にリードでつながれているのを発見。どうやら木製の柵を食い破って脱走(2回目)したらしい。近所の人がうちの犬だと気づいてくれて、つかまえて柱につないでくれたらしい、ということを後で聞く。4人で避難所に行く時に柵の中に入れていったんだけど、地震、余震の恐怖、そして追い打ちをかけるように1人ぼっちで置いていかれたことでおそらくパニックになって、無我夢中で食い破ったんだろうと思う。よくもまあそこまで…よっぽど怖かったんだろうな。ごめんよ。でも避難所には連れて行けないので、かわいそうだけど我慢してくれよと願って私と母、避難所に戻る。

 避難所にて夜10時半頃、災害備蓄用のアルファ米(お湯が準備できないので水で炊いた?もの)を役場の職員さん達が配る。1人に1パック(もしくは1カップ)ずつ。人々が並んだりすると混乱し、もらえない人が出たりするのを避けるため、これから配って回りますのでそのまま座ってお待ちください…と拡声器で職員さんが告げる。
 この避難所には700人前後の人が避難してきていたけど、アルファ米は500食分?しかなかったので、水で炊いた後に職員さん達がプラスチックの透明パックとか紙コップみたいなカップに手ずから分け直していました…ご苦労様です。だから1人あたりの分量は少なめで、しかも水で炊いてるから冷たいんだけど、ちょっと醤油味の混ぜご飯みたいな感じで、そうまずい味でもなかった。おいしくいただきました。
 停電しているので「消灯」というのはないけど、0時頃から床に横になる人が多くなり始める。余震が起こるたびに、体育館天井の照明の揺れを確認するために懐中電灯で天井を照らす人も。ゆらゆらと揺れる照明。「うち(照明の)真下じゃん」とか言ってる家族の声もする。
 携帯のワンセグでテレビ見てる人もいた。ニュースらしき映像が遠目で見えました。

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3月12日(土) 2日目
 避難所に一晩いたけど、ずっとざわざわしてて眠れるもんじゃないし、じいちゃんもあんまりよく眠れなかったみたいなので、とにかく明るくなったらすぐ家に戻って、頑張って片付けて今日は家で寝ようということになる。私もちょっとは眠ったような気もするけど、夜明け前ぐらいからもう目が覚めちゃって眠れる状態ではなくなったので、横になりながらずっと体育館の窓越しの空を見て、早く夜が明けないかな、早く夜が明けないかなとずっと思ってました。5時半頃から徐々に空が明るくなり始めて、ちょっとずつ荷物の片付けをしたり、朝になってまた配られたアルファ米や家から持ってきたパンを食べたりしながら過ごし、8時半頃に4人で避難所を出る。
 外はすっかり雪景色。寒い。車2台で家へ。

 家に戻ると、新聞が来ている。地元紙。さすが!!と言うべきか。ページ数減で薄っぺらい新聞。大変ありがたく読みました。

 そしてたびたびの余震の中、終日、片付け。

 家の中の状態を一部ご紹介。台所です。でかい食器棚が倒れて、その重みでテーブルが手前側に押されて通り道をふさいでしまい、奥の流し台やガスレンジまでたどりつけない状態。これは数日後に撮った写真なのでまだ片付いたほうですが、直後はもっとひどかった。奥に行きたい場合はテーブルの上に乗って越えていかなければならない。それはもっぱらいちばん若い私の役目。

 私はその合間に自分の車でアパートに戻り、電気のブレーカーを落とす。前の日に聞いてたラジオで「停電中に家を離れる時は、電気が復旧した時の漏電防止のため、必ずブレーカーを下ろしてください」と言っているのを聞いて、ガスの元栓は閉めたけどブレーカーについては気がつかず下ろしてきてなかった私は非常にドキドキして、朝一番でブレーカー落としに行く!!と決めていたのです。結果そんなに早く電気は復旧しなかったけどね。でも下ろしておけば安心。そんなわけでブレーカーを落とし、あとさらなる食材や着替えなどを持って実家に戻る。

 昼食:カップラーメン+刻みねぎ
 台所がご覧のような状態だったので、この食器棚を元に戻すまではずっと洗面所の洗濯機の上にまな板を乗せていろいろ切ったりしてました。この日カップラーメンに入れたねぎも洗濯機の上で刻んだもの。お湯は石油ストーブにやかんをかけて沸かしました。電気がだめでもガスがだめでも煮炊きができる…石油ストーブ最強!!

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 午後も日が暮れるまで片付け。
 そういえば、午前に自分のアパートに戻った時、仕事がらみで電話したいところがいっぱいあるので、公衆電話を求めて病院とかNTTとかに行ってみました。病院の公衆電話はつながらず。NTTでも公衆電話は全くつながっていない、地域の電話線?が全部だめになっている(職員の人曰く)とのこと。
 そしてこの時、私はまだパジャマの上にコートという格好でした。つまり1日目にアパートを出た時以来、避難所でも、避難所から戻ってきても、ずっと着たきりすずめ。パジャマは冬用の部屋着みたいな形のものだったので避難所でも奇異の目で見られるということはなかったですが(というかずっと上にコート着てたけどね)、まあまわりを見渡せば皆ほとんど同じような格好の人ばかり、避難所を見ても街を歩く人を見ても皆ほとんどよそ行き着じゃなく部屋着みたいな格好だったし、しかも私も含めて皆、自分や人の格好などを気にするような状況ではなかったので、私も平気でずっとパジャマとコートで歩いてました。この日、着替えを実家に持ち帰ったので、その後は適宜着替えましたが、洗濯機を回せないので、ひどく汚れない限りは着れる物はずっと着てた。
 国道の信号のうち、ある一部だけはさっそく復活してた。交通量の多いところから順次復活させてるのかも。

 それからこの時だったと思いますが、車で街なかを走ってる時、ある会社(電気工事関係?)の前に人だかりができているのを発見。車を停めて見に行ってみると、「携帯の充電できます」ってことで非常用の電源みたいなのを開放してるらしい。おお〜と思って私も並んでみたが、「充電器を自分で持ってこないと充電できない」との内容を誰かが話しているのが耳に入って、充電器を持ってきてなかった私はそこで離脱。無念。この時以来、私は常に、携帯と共に充電器も一緒に持ち歩くようになりました。

 夕食:雑炊(白菜、玉子、みそ、顆粒みそ汁の素)、サラダ(レタス、玉ねぎ、ハム、きゅうり)、さんま缶詰、他
 冷やご飯などありもので。
 雑炊も作れる…石油ストーブ最強(しみじみ)。ろうそくの薄暗い灯りのもと、倒れたでかい棚が上にかぶさってて面積の半分しか使えないこたつの上で、ラジオを聞きながらの夕食。みみこもパンなど食べる。

 夜、じいちゃんが1人で懐中電灯だけでこの荒れ果てた家の中を無事にトイレに行けるかどうかわからないので、父と母&私が交代で起きて付き添う。

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3月13日(日) 3日目 天気:晴れ 暖かい
 新聞来る。実家は何だか知らないけど義理とかもあって3紙取ってるんですが、そのうち、昨日も来た地元紙と、あと全国紙1紙が今日来ました。

 朝食:食パン(石油ストーブの上に乗せて焼いてトーストに)、はちみつ、オレンジマーマレード、カップスープ、他

 午前9時過ぎ頃、父と母、近くのスーパーへ車で買い出しに行ってみる。結果、開店すらしておらず。この状態がこの後しばらく、十何日間、続くことになる。
 私が留守番している間、近所にガスを直しにきていた業者の人が、うちのガスボンベが倒れているのを見てついでに直してくれる。「ホース切れでねがったがらいがったな(ホース切れてなかったからよかったな)」(業者さん談)。その後、あらためてガス屋さんが来て、外のボンベ、台所のガスレンジを確認してくれて、問題なく使えるとのこと。プロパンだから早かった。仙台とかの都市ガスは復旧まで3月いっぱいぐらいかかってたもんね。

 昼食:冷凍ピラフ(停電中の冷凍庫で自然解凍されたものをフライパンで炒める)、避難所でもらったアルファ米の残り、みそ汁(豆腐、ねぎ、他)、冷や奴、他
 停電してるので冷蔵庫・冷凍庫に入っているものを早めに食べる。この季節だからまだよかったけど、真夏だったらもっと大変だっただろうな…。他にもお風呂のこととか、真夏、真冬じゃなくてよかったなと思うこと多々あり。

 近所のお家より豆腐や油揚げなどいただく。助け合いの心しみじみありがたく。

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 午後、携帯も固定電話も全くつながらないので(というか携帯はすでに充電切れになってたかも)、私の仕事の取引先と、あと友人宅をいくつか車で回ってみる。私の車のガソリンが少ないので、父の車に乗せてもらう。
 取引先はことごとく不在。電話つながるようになったらあらためてご連絡しますとメモ書きを書いて扉に挟んでおく。友人宅は不在だったり在宅だったり、電気関係の仕事の人は出社していたり。在宅だった友達とひとしきり話してちょっと安心する。
 回っている間に、車を運転してる人から道を聞かれる。「多賀城はどっちですか」と。多賀城??…どこから来たのかわからないがなぜ多賀城に行こうとしてここにいるのか…というぐらい、ここは見当はずれな場所である。とにかく国道に出てこっち方向に行ってくださいと教える。県外から親戚とか探しに来たんだろうなぁ。多賀城は海沿いだしきっと心配して探しに来たのでしょう。人ごとながら私も心配に。

 車で回っている間に見たり、あと友人から聞いた情報。
 ・ガソリンスタンド、営業中だとわかったところが2軒。どちらも車が長蛇の列で周辺渋滞中。
 ・某スーパー営業中。1人5点まで買えたとのこと。

 この日あたりから父とみみこ、日課であった午後の散歩再開。犬の散歩してる人いっぱいいたとのこと。
 母、風邪気味。総合感冒薬飲んで治る。

 夕食:冷蔵庫にあった豆ご飯・栗ご飯など、昼のみそ汁の残り、ポテトサラダ(じゃがいも、にんじん、きゅうり、玉ねぎ、りんご)、あと牛乳を早く使い切ろうということでフルーチェ(いちご味)。

 夜、みみこ庭に出して就寝。午後10時頃だったか。ろうそくの灯りで新聞読んだりするのもなかなか大変なので、あきらめて夜は早く寝るしかない。ラジオはずっとつけている。「○○町は壊滅的被害」…壊滅的、という言葉が暗い部屋の中でよりいっそう恐ろしい響きを持つ。
 ペットボトルにお湯を入れ、タオルでくるんだ湯たんぽをじいちゃん用に。じいちゃん、夜のトイレは1人で大丈夫とのことなので、今日は父・母・私いっせいに就寝。昼間に着ていた服を着たまま、その上にさらに上着を着込んで、さらに毛布にくるまる。茶の間の棚は倒れてガラスが割れてるので小さいガラスの欠片で床がじゃりじゃり。さらにその上を土足で歩いてるので土やらでさらにじゃりじゃり。その上に敷いた長座布団からはみ出さないように縮こまって横になる。

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