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震災体験記【1−3】 2011年3月17日(木)

震災体験記
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家族構成・居所については【1】をご覧ください。

記述について:
 プライバシー関連のことがらはフェイク入れてます。

3月17日(7日目)朝〜昼
3月17日(7日目)午後〜夕食
3月17日(7日目)夜


3月17日(木) 7日目 天気:雪やまず。昨日よりもさらさらな雪。つまり気温低い。朝、数cm積もっている。
 7時30分頃起床(私)。
 朝食:白米(土鍋炊き)、納豆、おからいり、なます、みそ汁(なめこ、せり)
 ところで納豆は、冷蔵庫の中に何パックか買い置きがあったんだけど、次に買えるのがいつになるかわからないので、1人1回に半パック分ぐらいずつにして節約しながら食べてました。

 朝の雪景色。


 午前、父、近所の人たちと連れだって用事。
 10時半頃、雪がやんで少し空が明るくなってくる。

 昼食:鮭チャーハン(焼いてほぐした鮭、にんじん、玉ねぎ、ねぎ、冷やご飯、チャーハンの素)、れんこんのきんぴら、煮豆(できあい)、牛乳かん(牛乳を寒天で固めたもの)

 昼頃、弟からメール。高速バスは空きがなくて予約取れないので、車を借りて一般道を運転して帰るかも(高速道は一般車両は通行止め中)とのこと。父、母、総出で反対。ふだん運転してない人が運転するのは危ないからやめて(by母)、来れたとしてもガソリン入れられないからやめろ(by父)、との内容を私が返信。

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 午後、父、車で県内の親戚宅へ。その道中に私のアパートがあるので、ついでに乗せて行ってもらって帰りにまた拾ってもらう。
 車に乗っている時、「中部電力」と書かれた黄色い作業車を見かける。そんな遠くから来てくれてるんだ…と感動して、地震後初めて、思わず涙がにじむ。名古屋に住んでる友人になぜか「ありがとう!!」とメール。
 新潟ナンバーの作業車も見た。遠路はるばる各地から本当にありがとうございますm(_ _)m

 地元ラジオ局(TBCラジオ)からの情報:
 佐川急便は荷物の営業所預かりでの配送を再開。輸送路が通常の状態ではないので配送にはおよそ1週間かかるとのこと。よってクール便は対象外。
 宅急便が再開されると、他の土地とのつながりがやっと復活するような感じがして、このニュースは熱心に聞きました。

 私のアパート、水道の栓をひねってみても水が出ない。やはり断水かー。電気復活したしお風呂に入れる!!と思っていたのに無念。
 リビングをちょこちょこ片付ける。でも初めは、いったいどこから手をつけたものやらほとほとわからず、しばらくぼーっとたたずんでしまいました。まずとにかく捨てるもの、捨ててもいいものをどんどんゴミ袋に入れる。リビングで散らばったものを何となく何か所かにまとめる。先は長い…。
 冷蔵庫やHDDレコーダーを稼働させておきたいので今日はブレーカーを上げて帰ろうと思うんだけど、全く手をつけていない、物が散らばりまくっていて床が見えないぐらいになっている奥の部屋の、よりによっていちばん奥にコンセントが。万が一、コードが傷ついたりしてて漏電して、散らばった物に引火したりしたら大変なので、散らばった物の上をスリッパで踏みながら(しかし踏んでも構わないようなものがなぜこんなにたくさん部屋にあるのか…)、奥にたどり着いてコンセントを抜く。テレビや冷蔵庫とかがあるリビングも危なそうなコンセントやコードがないかどうか確認して、ブレーカーを上げたまま帰宅。

 父、親戚宅からの帰り、たまたま開いてるのを見かけたコンビニや道の駅で買い出しをしてくる。買えた物:ビスケット、さきいか、甘納豆、せんべい、ドッグフード。つまりろくなものが売られてなかった(ドッグフードは買えてよかった)ということなんだけど、でも「店が開いてて物を買えた」という事実に私はしばし感動。
 営業中のスタンドも見かけたがものすごく行列していたので並ぶのはやめた、とのこと。

 某スーパーは店内の電灯ついてるが休業中。でも開店の準備してるのかなーと思って期待。
 街の信号、復活している箇所が増えている。

 夕食:白米(土鍋炊き)、14日のうどんの汁を汁物として、れんこんのきんぴらの残り、サラダ(レタス、きゅうり、ミニトマト、ハム)、しみ豆腐の煮付け、こんぶの煮付け、鶏肉のしょうゆ煮、フルーチェ(ピーチ味)

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 ろうそくの灯りのもと、TBCラジオに耳を傾ける。「明日営業する店舗」情報を食い入るように聴く。地域内のいくつかの店が開店するとのこと。
 そういえば、ずっとラジオで被害状況を聞いてるけど、県内の地名だと気仙沼、南三陸町、女川、石巻、東松島市、多賀城、七ヶ浜、仙台の若林区、名取…というあたりはよく出てくるけど、東松島市と多賀城の間にあるはずの「松島」という地名がさっぱり出てこないな…?とふと思い至る。「塩釜」も。松島・塩釜はちょっと湾のようになってて、だから津波が届かなかったのか?いや逆に、湾だから津波の勢いが増して被害がひどいのでは?ひどすぎて情報がつかめていないとか?…等と家族で話し合ったのがこの日(17日)あたりだったような気がする。もしかしたらもっと前だったかも。停電中でろうそくの灯りの中だったのは確かです。特に松島は個人的になじみ深い場所なので、全く情報が出てこないっていうのがすごく心配でした。手元の新聞を見返してみると、18日には松島について「1900人が避難」と載っている。瑞巌寺にたくさんの人が避難しているという記事を読んだのも18日ぐらいだったかなぁ。ともかく、松島は津波の勢いが増していたのではなくその逆で、松島湾の島々が緩衝材のようになって水があまり陸地に来なかった(これは別な日の記事だったかも)ということを知って、逆じゃなくてよかったなぁ…と思ったのでした。
 ※追記:緩衝材になった松島湾内の島々の中には、人が住んでる島もあった。桂島とか野々島とか、寒風沢島とか。桂島の人のインタビューが新聞に載ってたのを後日読んだ時、「松島は島々が守ってくれたんだね、良かったねって言われてるみたいだけど、その津波の通り道にあった島に住んでる俺達はどうなんの」みたいなことが言われてて、ああそうだな〜とその時初めて思い至りました。湾内の島々っていわゆる景勝になってる島々しか思い浮かんでなかった。人が住んでる島もあったよね。知ってたはずなのに気づいてなかった。ごめんなさい。松島被害少なくてよかったなぁとは言えないよね。

 午後9時半頃就寝。みみこ家の中に入れたまま。夜の間に3回ぐらい余震あったけど、いつまでも駆け回らないですぐ落ち着くようになった。1週間経って慣れてきたのかな。

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