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   震災体験記【1】 2011年3月11日(金)〜17日(木)

震災体験記 【1】 【2】 【3】 【4】 【5】 【6】 【心の声】
家族:
 私(30代)
 父(60代)
 母(60代)
 じいちゃん(80代)
 みみこ(仮名)(犬・5歳)

居所:
 宮城県。沿岸部ではない地域。
 私は実家を離れて同じ地域内で1人アパート暮らし。

記述について:
 プライバシー関連のことがらはフェイク入れてます。

■3月11日(金) 1日目(地震発生日)
 そろそろ仕事のための準備すっぺかと思いながらアパートの部屋でごろごろしていた時、地震発生。午後2時46分。
 一瞬で「大きい!!」と思うような強い揺れ。あわてて飛び起き、パジャマという格好のまま、携帯だけ握りしめつつ、玄関に走ってドアを開ける(逃げ道確保)。隣の部屋の人も外に出てきていて、思わず顔を見合わせて「ちょっと…」「すごいですね…」と言い合う。そう言ってる間に揺れはさらに強くなり、私は玄関のドアのノブを持っていたんだけど揺れでどんどん体が振られて、部屋の中では食器棚が倒れかかったりその上に乗せていた箱が落ちて中に入れてたお弁当箱とかが玄関の外まで転げ出てきたりしてるので、私はとりあえずドアを閉めて、今度は玄関前の柵みたいなものにつかまった。つかまっていないととても立っていられない…つかまっていても右に左に、前に後ろに体が振られ、思わず「わーーー!!」と悲鳴が出る。錯覚かもしれないけどこの時、アパートの建物も、斜めになるぐらい揺れてた気がする(プリンをお皿に乗せて、皿を揺すってぷるぷるさせてる時みたいな感じ)もうとにかく柵につかまってるしかできず、そうやってるうちにだんだん揺れはゆっくりになり、おさまってきたなという頃に「…おぉ〜怖かったぁ…」と言いながら部屋の中に戻る。とりあえず建物つぶれなくてよかった…。食器棚が斜めになっててそのままでは中に入れないので、よいしょっと起こし上げ、あらゆるものが散乱した部屋の中に入る。
 電気つかない。停電。こりゃしばらくはだめだな…と思いながら、携帯で実家に電話。つながらない。この揺れだし実家は築何十年の古い家なので、心配でとにかく行ってみようと思い立つ。そこらへんにあるパンとか飲み物とかを少し持って、ガスの元栓を閉め(元栓までたどり着くのがまた大変。お菓子の箱や鍋などが散乱した上をスリッパで踏みながら、ようやっと元栓を閉める)、パジャマの上にコートを着て、車で実家へ。

 道路は渋滞。アスファルトのあっちにもこっちにもひび割れ。段差。電柱があっちこっちに傾いてて遠近感がおかしくなりそうな風景。信号も消えてるので皆おそるおそるの牛歩運転。止まっていると余震で車がゆさゆさ揺れる。カーラジオでは地震情報、たぶん通常の番組内容が吹っ飛んでずっと地震情報(落ち着いて行動してください、とか)をやってたと思う。
 途中、1階がつぶれている建物や家を目撃。昔からよく知っている建物。家。ああ…(つらい)と思いながら、まさか実家は…と背筋が冷たくなる。
 普通なら10分か15分ぐらいで着くところを30分以上かかって実家に到着。実家の建物は無事でした。よかったー。庭先に車を停めると、家の中から母が私を見て「あら〜!!よかった〜!!」と大声。あとから聞くと、私が車で来れるという発想がなくて、歩いてでも来いと思っていたらしい。いつも車で実家に行ってるのに何でやねん。まあそれだけみんな動揺していたということ。
 そんな母は、じいちゃんの部屋のタンスが倒れたので、それを直そうとしていたところ。じいちゃんが使ってるベッドの上、まさにいつもじいちゃんが寝てる場所に、でかくて重たい昔造りのタンスがどすんと倒れたと。そしてなんとその時じいちゃんはちょうどトイレに行っていたと…何というラッキーボーイ…。あと窓のサッシが外れてたり、他にも家の中に入るとあるわあるわ、倒れたり、壊れたりのオンパレード。でも母は地震の時、ちょうど柱のそばにいたのでとっさにつかまり、父は庭にいて、立っていられなくてよろけたけど、家族誰も怪我ひとつなく本震の揺れを乗り切っていました。偶然に助けられたところが大きかったですねうちの家族は。ばあちゃんが天国から守ってくれたか…ありがとうばあちゃん。
 家自体も損傷はなかったけど、家の中は割れた食器やらで危ないので、皆ずかずかと土足で出入り。とにかく家の中を動けるように、割れたものや倒れた家具をかきわけながら、とりあえずけもの道のような隙間を作っているという感じ。私は主に、未曾有の地震に恐怖して大興奮のみみこ(仮名)の監督。リードでつないでみたり、柵の中に入れてみたりと試行錯誤していたのですが、私もどうやら動揺していたようで、柵をきちんと閉めておかなかったすきにみみこすかさず脱走(1回目)。ああやってしまった…。リードとメロンパンを持って探しに行く。
 このころから天気は雪。風も吹いて吹雪く中、いつもの散歩コースに沿って探し歩く。いねーなぁ…。そのうち戻ってくるべかと思って家に戻ろうとした時、どこからかみみこ現れる。そのまま近所の家の敷地に入っていったので、そこの家の人にも手伝ってもらいながらリードでつないで捕獲。

 電気は停電してるけど水道は水が出る。でもいつ止まるかわからないので、出るうちに風呂(浴槽)、鍋、バケツなどに水を溜めておく。
 家の中に寝られる場所がないので、避難所に行ってみることに。日が暮れて暗がりの中、懐中電灯で照らしながら、とりあえず一晩分の食べ物・飲み物とかじいちゃんの布団、毛布、お湯入れたポット、4人分の懐中電灯とかを準備する。車2台に4人で分乗し、避難所になっている学校へ。(つまりみみこは置いていった)
 午後7時頃、着いてみると、体育館にはすでに人がいっぱい。何とかじいちゃんの布団を敷けるぐらいのスペースを確保する。陣取った場所のすぐそばに、たまたま、学校の生徒たちが下校する時に置いていったというダウンコートがいくつもあり(学校の生徒たちは地震後、何も持ちものを持たないで身一つですぐ帰されたらしいと後で聞く)、どうぞ使ってください、あとそのまま置いといてもらえればいいですのでと先生が言っていたそうなので、ありがたく使わせてもらう。毛布は持っていったものの夜けっこう寒かったので、防寒に大変役立ちました。生徒たち、先生、本当にありがとう。
 体育館内には自家発電式?のライト2基と、卒業式とかで使うような首振り暖房機が1台。まさに卒業式の当日だったのか、それとも前日だったのか次の日だったのかわかりませんが、館内には紅白の幕がかかっている。床にはカーペット様の敷物やウレタン様の敷物が敷いてあり、これでけっこう底冷えが食い止められてた気がする。でもそれでもけっこう寒かった。

 私の携帯が仕事の取引先につながり、こういう状況なのでまたあらためてご連絡します…と話す。
 他、親戚とメールのやり取りができた。県内の親戚は一同無事とのこと。

 トイレは水が止まっていて使えないので(それでも使ってる人がほとんどだったけど)、私と母、トイレのため夜9時頃に車で1回家に戻る。その時、みみこが玄関前の柱にリードでつながれているのを発見。どうやら木製の柵を食い破って脱走(2回目)したらしい。近所の人がうちの犬だと気づいてくれて、つかまえて柱につないでくれたらしい、ということを後で聞く。4人で避難所に行く時に柵の中に入れていったんだけど、地震、余震の恐怖、そして追い打ちをかけるように1人ぼっちで置いていかれたことでおそらくパニックになって、無我夢中で食い破ったんだろうと思う。よくもまあそこまで…よっぽど怖かったんだろうな。ごめんよ。でも避難所には連れて行けないので、かわいそうだけど我慢してくれよと願って私と母、避難所に戻る。

 避難所にて夜10時半頃、災害備蓄用のアルファ米(お湯が準備できないので水で炊いた?もの)を役場の職員さん達が配る。1人に1パック(もしくは1カップ)ずつ。人々が並んだりすると混乱し、もらえない人が出たりするのを避けるため、これから配って回りますのでそのまま座ってお待ちください…と拡声器で職員さんが告げる。
 この避難所には700人前後の人が避難してきていたけど、アルファ米は500食分?しかなかったので、水で炊いた後に職員さん達がプラスチックの透明パックとか紙コップみたいなカップに手ずから分け直していました…ご苦労様です。だから1人あたりの分量は少なめで、しかも水で炊いてるから冷たいんだけど、ちょっと醤油味の混ぜご飯みたいな感じで、そうまずい味でもなかった。おいしくいただきました。
 停電しているので「消灯」というのはないけど、0時頃から床に横になる人が多くなり始める。余震が起こるたびに、体育館天井の照明の揺れを確認するために懐中電灯で天井を照らす人も。ゆらゆらと揺れる照明。「うち(照明の)真下じゃん」とか言ってる家族の声もする。
 携帯のワンセグでテレビ見てる人もいた。ニュースらしき映像が遠目で見えました。

■3月12日(土) 2日目
 避難所に一晩いたけど、ずっとざわざわしてて眠れるもんじゃないし、じいちゃんもあんまりよく眠れなかったみたいなので、とにかく明るくなったらすぐ家に戻って、頑張って片付けて今日は家で寝ようということになる。私もちょっとは眠ったような気もするけど、夜明け前ぐらいからもう目が覚めちゃって眠れる状態ではなくなったので、横になりながらずっと体育館の窓越しの空を見て、早く夜が明けないかな、早く夜が明けないかなとずっと思ってました。5時半頃から徐々に空が明るくなり始めて、ちょっとずつ荷物の片付けをしたり、朝になってまた配られたアルファ米や家から持ってきたパンを食べたりしながら過ごし、8時半頃に4人で避難所を出る。
 外はすっかり雪景色。寒い。車2台で家へ。

 家に戻ると、新聞が来ている。地元紙。さすが!!と言うべきか。ページ数減で薄っぺらい新聞。大変ありがたく読みました。

 そしてたびたびの余震の中、終日、片付け。

 家の中の状態を一部ご紹介。台所です。でかい食器棚が倒れて、その重みでテーブルが手前側に押されて通り道をふさいでしまい、奥の流し台やガスレンジまでたどりつけない状態。これは数日後に撮った写真なのでまだ片付いたほうですが、直後はもっとひどかった。奥に行きたい場合はテーブルの上に乗って越えていかなければならない。それはもっぱらいちばん若い私の役目。

 私はその合間に自分の車でアパートに戻り、電気のブレーカーを落とす。前の日に聞いてたラジオで「停電中に家を離れる時は、電気が復旧した時の漏電防止のため、必ずブレーカーを下ろしてください」と言っているのを聞いて、ガスの元栓は閉めたけどブレーカーについては気がつかず下ろしてきてなかった私は非常にドキドキして、朝一番でブレーカー落としに行く!!と決めていたのです。結果そんなに早く電気は復旧しなかったけどね。でも下ろしておけば安心。そんなわけでブレーカーを落とし、あとさらなる食材や着替えなどを持って実家に戻る。

 昼食:カップラーメン+刻みねぎ
 台所がご覧のような状態だったので、この食器棚を元に戻すまではずっと洗面所の洗濯機の上にまな板を乗せていろいろ切ったりしてました。この日カップラーメンに入れたねぎも洗濯機の上で刻んだもの。お湯は石油ストーブにやかんをかけて沸かしました。電気がだめでもガスがだめでも煮炊きができる…石油ストーブ最強!!
 午後も日が暮れるまで片付け。
 そういえば、午前に自分のアパートに戻った時、仕事がらみで電話したいところがいっぱいあるので、公衆電話を求めて病院とかNTTとかに行ってみました。病院の公衆電話はつながらず。NTTでも公衆電話は全くつながっていない、地域の電話線?が全部だめになっている(職員の人曰く)とのこと。
 そしてこの時、私はまだパジャマの上にコートという格好でした。つまり1日目にアパートを出た時以来、避難所でも、避難所から戻ってきても、ずっと着たきりすずめ。パジャマは冬用の部屋着みたいな形のものだったので避難所でも奇異の目で見られるということはなかったですが(というかずっと上にコート着てたけどね)、まあまわりを見渡せば皆ほとんど同じような格好の人ばかり、避難所を見ても街を歩く人を見ても皆ほとんどよそ行き着じゃなく部屋着みたいな格好だったし、しかも私も含めて皆、自分や人の格好などを気にするような状況ではなかったので、私も平気でずっとパジャマとコートで歩いてました。この日、着替えを実家に持ち帰ったので、その後は適宜着替えましたが、洗濯機を回せないので、ひどく汚れない限りは着れる物はずっと着てた。
 国道の信号のうち、ある一部だけはさっそく復活してた。交通量の多いところから順次復活させてるのかも。

 それからこの時だったと思いますが、車で街なかを走ってる時、ある会社(電気工事関係?)の前に人だかりができているのを発見。車を停めて見に行ってみると、「携帯の充電できます」ってことで非常用の電源みたいなのを開放してるらしい。おお〜と思って私も並んでみたが、「充電器を自分で持ってこないと充電できない」との内容を誰かが話しているのが耳に入って、充電器を持ってきてなかった私はそこで離脱。無念。この時以来、私は常に、携帯と共に充電器も一緒に持ち歩くようになりました。

 夕食:雑炊(白菜、玉子、みそ、顆粒みそ汁の素)、サラダ(レタス、玉ねぎ、ハム、きゅうり)、さんま缶詰、他
 冷やご飯などありもので。
 雑炊も作れる…石油ストーブ最強(しみじみ)。ろうそくの薄暗い灯りのもと、倒れたでかい棚が上にかぶさってて面積の半分しか使えないこたつの上で、ラジオを聞きながらの夕食。みみこもパンなど食べる。

 夜、じいちゃんが1人で懐中電灯だけでこの荒れ果てた家の中を無事にトイレに行けるかどうかわからないので、父と母&私が交代で起きて付き添う。

■3月13日(日) 3日目 天気:晴れ 暖かい
 新聞来る。実家は何だか知らないけど義理とかもあって3紙取ってるんですが、そのうち、昨日も来た地元紙と、あと全国紙1紙が今日来ました。

 朝食:食パン(石油ストーブの上に乗せて焼いてトーストに)、はちみつ、オレンジマーマレード、カップスープ、他

 午前9時過ぎ頃、父と母、近くのスーパーへ車で買い出しに行ってみる。結果、開店すらしておらず。この状態がこの後しばらく、十何日間、続くことになる。
 私が留守番している間、近所にガスを直しにきていた業者の人が、うちのガスボンベが倒れているのを見てついでに直してくれる。「ホース切れでねがったがらいがったな(ホース切れてなかったからよかったな)」(業者さん談)。その後、あらためてガス屋さんが来て、外のボンベ、台所のガスレンジを確認してくれて、問題なく使えるとのこと。プロパンだから早かった。仙台とかの都市ガスは復旧まで3月いっぱいぐらいかかってたもんね。

 昼食:冷凍ピラフ(停電中の冷凍庫で自然解凍されたものをフライパンで炒める)、避難所でもらったアルファ米の残り、みそ汁(豆腐、ねぎ、他)、冷や奴、他
 停電してるので冷蔵庫・冷凍庫に入っているものを早めに食べる。この季節だからまだよかったけど、真夏だったらもっと大変だっただろうな…。他にもお風呂のこととか、真夏、真冬じゃなくてよかったなと思うこと多々あり。

 近所のお家より豆腐や油揚げなどいただく。助け合いの心しみじみありがたく。
 午後、携帯も固定電話も全くつながらないので(というか携帯はすでに充電切れになってたかも)、私の仕事の取引先と、あと友人宅をいくつか車で回ってみる。私の車のガソリンが少ないので、父の車に乗せてもらう。
 取引先はことごとく不在。電話つながるようになったらあらためてご連絡しますとメモ書きを書いて扉に挟んでおく。友人宅は不在だったり在宅だったり、電気関係の仕事の人は出社していたり。在宅だった友達とひとしきり話してちょっと安心する。
 回っている間に、車を運転してる人から道を聞かれる。「多賀城はどっちですか」と。多賀城??…どこから来たのかわからないがなぜ多賀城に行こうとしてここにいるのか…というぐらい、ここは見当はずれな場所である。とにかく国道に出てこっち方向に行ってくださいと教える。県外から親戚とか探しに来たんだろうなぁ。多賀城は海沿いだしきっと心配して探しに来たのでしょう。人ごとながら私も心配に。

 車で回っている間に見たり、あと友人から聞いた情報。
 ・ガソリンスタンド、営業中だとわかったところが2軒。どちらも車が長蛇の列で周辺渋滞中。
 ・某スーパー営業中。1人5点まで買えたとのこと。

 この日あたりから父とみみこ、日課であった午後の散歩再開。犬の散歩してる人いっぱいいたとのこと。
 母、風邪気味。総合感冒薬飲んで治る。

 夕食:冷蔵庫にあった豆ご飯・栗ご飯など、昼のみそ汁の残り、ポテトサラダ(じゃがいも、にんじん、きゅうり、玉ねぎ、りんご)、あと牛乳を早く使い切ろうということでフルーチェ(いちご味)。

 夜、みみこ庭に出して就寝。午後10時頃だったか。ろうそくの灯りで新聞読んだりするのもなかなか大変なので、あきらめて夜は早く寝るしかない。ラジオはずっとつけている。「○○町は壊滅的被害」…壊滅的、という言葉が暗い部屋の中でよりいっそう恐ろしい響きを持つ。
 ペットボトルにお湯を入れ、タオルでくるんだ湯たんぽをじいちゃん用に。じいちゃん、夜のトイレは1人で大丈夫とのことなので、今日は父・母・私いっせいに就寝。昼間に着ていた服を着たまま、その上にさらに上着を着込んで、さらに毛布にくるまる。茶の間の棚は倒れてガラスが割れてるので小さいガラスの欠片で床がじゃりじゃり。さらにその上を土足で歩いてるので土やらでさらにじゃりじゃり。その上に敷いた長座布団からはみ出さないように縮こまって横になる。

■3月14日(月) 4日目 天気:晴れ 暖かい
 新聞、3紙来る。昨日まで来てなかった全国紙1紙は昨日の分と今日の分がセットで来た。

 朝食:前日の食パンの残り、他ありもののパン、カップスープ、ハム・チーズ・きゅうり・レタスなど。

 午前、皆が着たきりだった衣類を手洗いで洗濯。洗剤を使うとすすぎが大変なので、水でごしごし洗うのみ。天気が良く暖かいのでよく乾く。
 引き続き家の中の片付け。各部屋で倒れていた大きい家具のうち、台所の食器棚と茶の間の棚を除いた他の棚やらを起こして元通りにする。棚の中身が壊れていたり、汚れたり、棚が倒れた時に壁が傷ついていたり、ひどいものでは壁に穴が開いていたり。まだ大きい余震が来ているので、本棚の本などはまた落ちてこないように床に置く。ほとんど物置と化している奥の間があるのですが、そこもこの地震で物という物が散乱しますます足を踏み入れられない状態になっていたのを、入口から1mぐらいのところまで人が入れる空間をやっと作る。

 昼食:野菜汁うどん(えのき、白菜、にんじん、鶏肉)、にしん甘露煮、漬物
 うどんは1袋(3食分)を4人で分ける。

 午後、台所の倒れた食器棚を直す。余震に備えるため、棚が上下に分かれているうちの上部は上に乗せずに床に置く。扉のガラスが割れて無残な状態。
 私は自分の車でアパートへ行き、さらなる着替え、食料、ろうそくと電池(実家にある分の残りが心もとない)を持ってくる。

 昨日も開いていた某スーパー今日も開いている。あと昨日も開いていたスタンド2軒に加えてもう1軒、開いているのを発見。いずれも長蛇の列。

 夕食:白米(土鍋・ガスコンロで炊く)、昼のうどんの汁を汁物として、できあいのコロッケ(私のアパートの冷蔵庫から発見したもの)、冷凍物のハンバーグ(自然解凍されてるのでフライパンで焼く)、レタスとポテトサラダ、できあいの茶わん蒸し、菜っ葉のおひたし+海苔、フルーチェ(いちご味)
 これまでの記述でおわかりかと思いますが、我が家は、地震後も食事についてはなるべく普段どおりに(品数を減らしたりせず)作っていました。私は最初、いつ買い物できるかもわからないしおかず減らしたほうがいいじゃん!と言っていたのですが、母は「うーん…」。なるべくいつもどおりにしたほうが、気持ちが沈まないからいいと思っていた様子。うーんそれもそうだなと私も思い至る。特にうちは年寄りばっかりだから、「普段と違う」ということに対しての耐性があまりないんですよね。ボケるとまでは言わないけどじいちゃんなんか気持ちががっかりしちゃうもんね。そういう思いで、むしろいつもよりも品数が揃っているような食事を日々作り続けたのでした。これは正しかったと今にして思う。「気は心」という言葉をしみじみと実感。

 夜、ろうそくの灯りのもとで日々の記録のメモを書き始める(私)。
 じいちゃん、ペットボトル湯たんぽ今日はいらないとのこと。暖かかったからなのか、それとも気を遣っているのか。みみこは庭に出して就寝。

3月14日のメモより覚え書:

私の携帯(docomo)…地震後、通話1回可能(仕事の取引先に発信)
              メール数回可能(送受信とも)
              3月12日頃からはずっと「圏外」表示 メール・通話とも不能
父の携帯(au)…3月14日午前、弟から着信、通話

そう!うちの家族には「弟」(私の)という奴もいるのです。首都圏で1人暮らし中。
以降たびたび登場します。


■3月15日(火) 5日目 天気:曇り。薄暗い。午後から雨。昨日まで暖かかったから余計寒い。夜は雪に変わり庭一面白くなる。
 8時20分起床(私)。
 朝食:白米(土鍋炊き)、納豆+ねぎ、みそ汁(なめこ、豆腐、みつば)、白菜おひたし+かつおぶし

 私ちょっと風邪気味。総合感冒薬とジンジャーティー飲む。


3月15日のメモより覚え書:

いつ食べたか忘れたけど今までに食べたもの…
・わかめ+きゅうり+シーチキンの和え物
・もやしと油揚げの煮びたし
・大根のみそ汁
・お茶、飲み物、おやつ、漬物は随時食べている


 午前、茶の間で倒れていた食器棚を元に戻す。上部と下部を別々に床に置く。
 茶の間だいぶ広くなり、こたつの天板も広々と全面使えるようになる。

 昼食:白米(朝の残り)、コンソメ&しょうゆ味付けのスープ(白菜、玉ねぎ、冷凍品ギョウザ・シューマイ)、焼き魚(サバ・みそ漬け)、もやしと油揚げの煮びたしの残り
 午後、父、用事のため車で外出。風邪薬買ってきてと頼むも薬局開いておらず。

 近所の人が、すでに電気復旧した親戚宅で我が家の携帯も充電してくれる。父のと私の計2台。大変ありがたかった。
 あちこちとメール・通話。友人(電気関係会社勤務)からのメールで、私のアパートのある地域がすでに電気復旧していると知る。

 夕食:カレー(じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、豚肉)、白米(土鍋炊き)、フライドポテト(いただきもの)+ベーコン+ピーマンの炒め物、フルーチェ(ピーチ味)
 じいちゃんフルーチェ気に入った様子。(ヨーグルトだと思ってるようだけど)

 夜、父は親戚宅などあちこちに電話。母、震災覚え書を書き始める。私、風邪治る。みみこ、お座りのままいびきかいて寝ている。地震・余震の緊張状態が続いている様子。

 夜10時頃就寝。昨日かこの日あたりから、床の間に敷いた布団で寝る。屋根の上に積もった雪が時々、どどどーっと音をたてて落ち、その度にいちいちびっくりする。
 10時25分頃、強い揺れ。ラジオつけると静岡東部で震度6強とのこと。
 0時25分頃にも強い揺れ。みみこ家の中を駆け回ってうるさいので庭に出す。
 午前4時頃にも揺れで目覚める。毎晩こんな調子で余震があるたびに目が覚める。

■3月16日(水) 6日目 天気:曇り。時々日が差す。庭の雪とけ始める。午前〜昼はぼたぼた雪。午後もちらちら。
 7時30分起床(私)。
 朝食:白米(冷やご飯を蒸して温める)、納豆、昨日のみそ汁の残り、おからいり(冷蔵庫にあったやつ)

 午前、私、アパートに車で行き、母のと自分の携帯を充電。(しかし私の携帯はまた「圏外」表示)
 テレビ見る。最初映らなくて「なんで??」と途方に暮れるが、説明書と首っ引きで見てみたらコードが1本抜けていた。えいっと挿して復活。
 ひさしぶりのテレビ…。震災関連番組をずっとやっている。
 ガス使用可能という旨の通知が投函されている。水も出ることを確認。(←と、この時点ではメモに書いたが、水道管の中にあった水が出ていただけと後日判明。)
 携帯の電波復活したので、あちこちメール。

 アパートへの行き帰りの時にお店などの状況をあちこち見る。
・昨日まで開いていた某スーパーは閉店中。『3月15日以降休業いたします』という貼り紙が。
・営業しているのを昨日までに確認したスタンド3軒、いずれも今日は営業しておらず。
・復活している信号いくつかあり。

 昼食:みそラーメン(もやし、まいたけ、玉ねぎ、ねぎ)
 友人からのメールで、「某スーパーは行列してるけど品数制限なしで普通に買える。明日も朝9時から営業」ということを知る。ありがとうm(_ _)m
 弟からのメール、こちらに帰ってくる高速バス取れたら取るとのこと。もし取れるなら、電池、パン、ドッグフードを買えたら買って帰ってきて〜と伝える。

 夕食:白米(冷やご飯を蒸して温める)、14日のうどんの汁の残りを汁物として、ギョウザ(いただきもの)、おからいり、サラダ(キャベツ、パプリカ)、漬物、フルーチェ(ピーチ味)

 夕食後、みみこ今日もお座りのままいびき。
 私と母、漢検の問題集に取り組む。夕食の後にろうそくの灯りでできることがあんまりなく、毎日あまりに暇なので、私がアパートから持ってきたもの。この日はまあまあ真面目にやったが、やはりろうそくの灯りでは薄暗くてだんだん疲れてくるので、結局、取り組んだのは後にも先にもこの日だけとなったとさ…。

 夜、みみこ家の中に入れたまま就寝。余震少なかったせいか昨夜よりはうるさくなかったので、庭に出されることなく朝まで中にいる。
 やはり毎晩、2〜3回は余震で目が覚める。

■3月17日(木) 7日目 天気:雪やまず。昨日よりもさらさらな雪。つまり気温低い。朝、数cm積もっている。
 7時30分頃起床(私)。
 朝食:白米(土鍋炊き)、納豆、おからいり、なます、みそ汁(なめこ、せり)
 ところで納豆は、冷蔵庫の中に何パックか買い置きがあったんだけど、次に買えるのがいつになるかわからないので、1人1回に半パック分ぐらいずつにして節約しながら食べてました。

 朝の雪景色。


 午前、父、近所の人たちと連れだって用事。
 10時半頃、雪がやんで少し空が明るくなってくる。

 昼食:鮭チャーハン(焼いてほぐした鮭、にんじん、玉ねぎ、ねぎ、冷やご飯、チャーハンの素)、れんこんのきんぴら、煮豆(できあい)、牛乳かん(牛乳を寒天で固めたもの)

 昼頃、弟からメール。高速バスは空きがなくて予約取れないので、車を借りて一般道を運転して帰るかも(高速道は一般車両は通行止め中)とのこと。父、母、総出で反対。ふだん運転してない人が運転するのは危ないからやめて(by母)、来れたとしてもガソリン入れられないからやめろ(by父)、との内容を私が返信。
 午後、父、車で県内の親戚宅へ。その道中に私のアパートがあるので、ついでに乗せて行ってもらって帰りにまた拾ってもらう。
 車に乗っている時、「中部電力」と書かれた黄色い作業車を見かける。そんな遠くから来てくれてるんだ…と感動して、地震後初めて、思わず涙がにじむ。名古屋に住んでる友人になぜか「ありがとう!!」とメール。
 新潟ナンバーの作業車も見た。遠路はるばる各地から本当にありがとうございますm(_ _)m

 地元ラジオ局(TBCラジオ)からの情報:
 佐川急便は荷物の営業所預かりでの配送を再開。輸送路が通常の状態ではないので配送にはおよそ1週間かかるとのこと。よってクール便は対象外。
 宅急便が再開されると、他の土地とのつながりがやっと復活するような感じがして、このニュースは熱心に聞きました。

 私のアパート、水道の栓をひねってみても水が出ない。やはり断水かー。電気復活したしお風呂に入れる!!と思っていたのに無念。
 リビングをちょこちょこ片付ける。でも初めは、いったいどこから手をつけたものやらほとほとわからず、しばらくぼーっとたたずんでしまいました。まずとにかく捨てるもの、捨ててもいいものをどんどんゴミ袋に入れる。リビングで散らばったものを何となく何か所かにまとめる。先は長い…。
 冷蔵庫やHDDレコーダーを稼働させておきたいので今日はブレーカーを上げて帰ろうと思うんだけど、全く手をつけていない、物が散らばりまくっていて床が見えないぐらいになっている奥の部屋の、よりによっていちばん奥にコンセントが。万が一、コードが傷ついたりしてて漏電して、散らばった物に引火したりしたら大変なので、散らばった物の上をスリッパで踏みながら(しかし踏んでも構わないようなものがなぜこんなにたくさん部屋にあるのか…)、奥にたどり着いてコンセントを抜く。テレビや冷蔵庫とかがあるリビングも危なそうなコンセントやコードがないかどうか確認して、ブレーカーを上げたまま帰宅。

 父、親戚宅からの帰り、たまたま開いてるのを見かけたコンビニや道の駅で買い出しをしてくる。買えた物:ビスケット、さきいか、甘納豆、せんべい、ドッグフード。つまりろくなものが売られてなかった(ドッグフードは買えてよかった)ということなんだけど、でも「店が開いてて物を買えた」という事実に私はしばし感動。
 営業中のスタンドも見かけたがものすごく行列していたので並ぶのはやめた、とのこと。

 某スーパーは店内の電灯ついてるが休業中。でも開店の準備してるのかなーと思って期待。
 街の信号、復活している箇所が増えている。

 夕食:白米(土鍋炊き)、14日のうどんの汁を汁物として、れんこんのきんぴらの残り、サラダ(レタス、きゅうり、ミニトマト、ハム)、しみ豆腐の煮付け、こんぶの煮付け、鶏肉のしょうゆ煮、フルーチェ(ピーチ味)

 ろうそくの灯りのもと、TBCラジオに耳を傾ける。「明日営業する店舗」情報を食い入るように聴く。地域内のいくつかの店が開店するとのこと。
 そういえば、ずっとラジオで被害状況を聞いてるけど、県内の地名だと気仙沼、南三陸町、女川、石巻、東松島市、多賀城、七ヶ浜、仙台の若林区、名取…というあたりはよく出てくるけど、東松島市と多賀城の間にあるはずの「松島」という地名がさっぱり出てこないな…?とふと思い至る。「塩釜」も。松島・塩釜はちょっと湾のようになってて、だから津波が届かなかったのか?いや逆に、湾だから津波の勢いが増して被害がひどいのでは?ひどすぎて情報がつかめていないとか?…等と家族で話し合ったのがこの日(17日)あたりだったような気がする。もしかしたらもっと前だったかも。停電中でろうそくの灯りの中だったのは確かです。特に松島は個人的になじみ深い場所なので、全く情報が出てこないっていうのがすごく心配でした。手元の新聞を見返してみると、18日には松島について「1900人が避難」と載っている。瑞巌寺にたくさんの人が避難しているという記事を読んだのも18日ぐらいだったかなぁ。ともかく、松島は津波の勢いが増していたのではなくその逆で、松島湾の島々が緩衝材のようになって水があまり陸地に来なかった(これは別な日の記事だったかも)ということを知って、逆じゃなくてよかったなぁ…と思ったのでした。
 ※追記:緩衝材になった松島湾内の島々の中には、人が住んでる島もあった。桂島とか野々島とか、寒風沢島とか。桂島の人のインタビューが新聞に載ってたのを後日読んだ時、「松島は島々が守ってくれたんだね、良かったねって言われてるみたいだけど、その津波の通り道にあった島に住んでる俺達はどうなんの」みたいなことが言われてて、ああそうだな〜とその時初めて思い至りました。湾内の島々っていわゆる景勝になってる島々しか思い浮かんでなかった。人が住んでる島もあったよね。知ってたはずなのに気づいてなかった。ごめんなさい。松島被害少なくてよかったなぁとは言えないよね。

 午後9時半頃就寝。みみこ家の中に入れたまま。夜の間に3回ぐらい余震あったけど、いつまでも駆け回らないですぐ落ち着くようになった。1週間経って慣れてきたのかな。

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